教養と認識
人間というのは不思議なもので、知っている物事は簡単に認識できても、知らないものはなかなか認識できなかったりします。
知らないもの、というか、意識の外にあるもの、というか。そういうものは簡単には認識できない傾向にあるようです。
例えば私は同僚が髪を切ったとか、そういうことに無頓着だったのでにあまり気づかない人でした(今でも気づかなかったりすることがあります)。
人生において色々な物事が自分の脇を通り過ぎていくように思えますが、そのうち認識できているのはどの程度なんだろうか、それを認識できるようになるにはどうしたら良いのだろうか、とふと思ったりするわけです。
そういったものを認識するにはそのものを知る必要、もしくは強烈に認知する必要があります。
例えば髪を切ったことに気づくには、「人が髪を切ったことは話題になるし、気付いてもらえると嬉しい」ということをわかっているか、誰かに「あの人、髪を切ったね」と教えてもらうか、とかがそれぞれに該当するかも。
かたや、リベラルアーツとか教養の必要性がよくわかられていない、というような話がTwitterでよく見受けられる気もします。
私も大学時代は教養の必要性はわかっておらず、授業のテーマで「なぜ大学や大学院が必要なのか」を考えることになった時に「同等の教育ができるなら専門学校があれば良いのでは」という結論を出したこともありました。
今であれば、知らないと気づけないから、予め広い分野において知識を仕入れておくこと、広い世界があるのだと知っておくこと、色々なことに気付けるようになること、それが教養なのだと思います。
なので、話の通じない弟には様々な分野の本を読んで欲しい…(奴はラノベしか読まない)
いくら自分に対して思索を深めたところで、自分以外の考え方や世界があることを認めなければ、いつまでも井の中の蛙なのだということをわかって欲しい…
まあ私もまだまだ教養が足りない部類の人間だから、そう言っても行動で示しても伝わらないのかもしれないけれど…
自戒を込めて。